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糸魚川-静岡構造線
フィールドミュージアム

富士川と早川の合流地点 屛風岩
身延町指定天然記念物

「富士山随一の景勝地 屛風岩」
目の前に天と地を飾るように衝き立っているのが世に広く知られている屛風岩である。
天を指す頂の老松は風に謡い、岩の肌には紅葉が彩りを添え、地と接する裳裾(しょうきょ)には富士川の激流が渦を描いている。
実に天下の絶景である。富士川を船で旅する人々がその見事さに驚嘆し、歌川広重は絵に描き、十返舎一九は書に認(したた)めている。
「富士川に初めて舟が通ったのはまず身延までで慶長12年のことである。そして5年を経た17年に鰍沢河岸等の甲州三河岸まで完成させた。ここ屛風岩に衝突するかのように合流する早川の流しだす砂礫があまりにも膨大なため、身延から上に舟路を開くのに困難を極めた。徳川家康が角倉了以(すみくらりょうい)に命じ富士川に舟の路を開かせた目的は、養珠院お万の方の身延山、七面山への参詣の便と早川流域はじめ下部の湯の奥等から産出する黄金の運搬、そして天下統一のために壮健を頼む薬効物の移送であった。」
年貢米を運ぶようになったのは後のことである。ここ屛風岩は景勝の地であるとともに舟の難所でもあった。幾度も舟の事故はあったが中でも悲惨だったのは明治22年に起きたものである。17人もの尊い命が富士川の底に消えた。この人たちの供養碑が身延山の松井坊に祀られている。舟を安全に通すために富士川の舟路は繰り返し整備されたが、享保のころに飯富の古屋弥治右衛門という人が幾度目かの整備を行っている。
(以上、国土交通省の看板より)


出典:産総研地質調査総合センター「身延地域の地質」から抜粋して作成
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